もちもちした犬

おもに日記のようなものを書きます。

どんぐり

実家には、どんぐりの木がある。もう3メートルくらいの高さになり、毎年実がなっている。これは、小学1年の歓迎遠足で拾ったどんぐりである。つまり、自分の就学年数と樹齢がだいたい一致する。

長崎の原爆を生き抜いた、大きなどんぐりから落ちた実。小学1年の自分はたくさん持ち帰ってプランターに植え、いくつか芽が出た。長崎から佐世保の本家に引っ越した時にもちゃんと持ってきており、その後大きくなって庭に植えられた。

ちいさなどんぐりが立派な木になるまでの時間、自分はどれほど成長できただろうか。親戚たちと同じように、高校を出て地元の会社で就職し、一生を九州で終えたであろう自分だが、アラサーになっても親に金を入れることもできない、意味不明の院生になって、今国外にいる。

 

学者はだいたいが都会育ちか田舎の金持ちの出身なので(バカでかい偏見)、おおよそ田舎的世界に対しての嫌悪感や恐ろしさを知らず、勝手なロマン化をしがちだ。

田舎ではとにかくヒエラルキーの高い人間が一生勝ち続ける。家、金、権力、いろいろな要因があるが、一番わかりやすい指標は中学や高校でのポジションであり、やはり学校的世界は重要なポイントとなる。

校長や学校の先生という職業が必要以上に尊敬されるのも、ヤンキーが「どこ中や?」と言うのも、尾崎豊の歌詞がやけに学校にこだわるのも、先輩・後輩が一生つきまとうのも、そういうところだ。

田舎は教員もたいがいバカなので、ヤンキーの味方である。手のかかるガキほどかわいいからだ。ヤンキーは勉強ができるやつが嫌いだ。眼鏡を踏んだり、足が遅いやつをいじめたりする。勉強のできたガキは、誰の印象にも残らずに消えていく。地元に居場所はないから早く出ないといけない。田舎は、保守性と家父長制、男尊女卑などなど、昭和の延長が旧態依然古色蒼然としている。

 

だが一方で、都市の大卒の層はどうしているのか。こちらは逆に頭のいいガキが勝つので、田舎の意味不明高校の上よりも、はるかに頭のいいガキがたくさん挫折をしている。

大きくなれば大学マウント、年収マウント、そして子供ができればすぐに中学受験の話ばかりして、日能研やら鉄緑会やらに通わせ、早くもレースを始めさせる。

実際のところ、彼らは「新自由主義」的エリートとなり、やがてマチズモ的になり、自己責任論に傾倒する(まあ、田舎から来た叩き上げエリートも必要以上にそれに適応しようとするものだが)。

 

結論、どこもかしこも狂ったヒエラルキーや競争が存在している。博士課程や研究の世界は、一層苛烈だと言えるかもしれない。まずPublish or perishはアカデミア全体に言えることだ。院生に関しては、DCを取っているかどうかが評価以前に生存の問題になる。博士号にしても、「足の裏の米粒」だのなんだのではなく、今や学振PDや公募のための必須要件になっている。院生も学者の家の人間は多く、文化資本の歴然たる違いを感じることもある。そして謎の力()が働くこともしょっちゅうだ。結局カッペが学者になろうとしたのがいけなかったんですかね!という気持ちにもなる。

 

デラシネであるとまではいかないが、ふらふらしたままアラサーになった自分は、いまだに根を張り、立派になることは出来ていない。お池にはまってさあ大変状態ともいえる。

競争は加速する一方だ。すべての競争から逃げたい。あるいは、もう少し遅い世界になってほしい。どんぐりよりもおそらく先に枯れてしまうであろう自分だが、せめてなんらかの形で実を結びたいものだ。