もちもちした犬

おもに日記のようなものを書きます。

帰国

5月の祭りなどの記事を書こうと思っていたのに、時間もなく気分も乗らず放置しっぱなしになっていました。まあ、そのうちなにか書こうと思います。

 

 

さて、6月の後半で交換留学が終わりとなり、京都に戻ってきた。

退寮の手続きは面倒だったが、その前日まで何も準備していなかった。というか暇がなかったのだ。毎日深夜にフィールドから戻り、洗濯したりゲームしたりネット見たりして寝る。起きてからは文献を漁ったりコピーしたりして夜にはまたフィールドに行き……の繰り返しであった。

いろいろ面倒ごとがあり大変だったが、どうにか日本に降り立った。関空も桃園もたいして違わない。〈非・場所〉というのはそういうことなんだろうか。クソ重い荷物を拾い上げ、高速バスに乗る。疲労でうとうとしているうちに、自分が台北から新竹に向かっているのか、関空から出町に向かっているのかわからなくなっていた。出町柳で降りると運転手がヘコヘコと「ありがとうございました」と言い、ああ、日本なんだなここは、と実感する。とんでもなく重たいトランクを2つ曳きながら歩くと家が死ぬほど遠い。ばんえい競馬状態で、進んでは止まりを繰り返しつつ歩いた。

自分がいない間にも京都の時間は進んでいた。知らない店が出来ていたり、知っている店が潰れたりしている。自分の居場所はもうないのかもしれない。

ほうほうのていで下宿に戻ると、時が止まっていた。幸い最悪の生き物の巣にはなっていなかったが、ぐちゃぐちゃに本が積まれ、荷解きをする場所もない。

日本に帰ってから最初に食べたのは、結局ペヤングだった。ソース味のものを久しく食べていなかったので、めちゃくちゃうまい気がした。

自分のフィールドは大学から結構な距離があり、乗り換えの時間なども含めると片道2時間程度かかる。最近は毎日夕方から夜にかけてその土地に通っていたので大変だった。もともと夜型の生活をしていたのでその点ではよかったが、普通に午前中は寝て過ごすことも多かった。

毎日フィールドで何をするのかというと、踊りの稽古である。自分の親くらいの年齢のご婦人たちと一緒になって踊りの練習をするのだ。それなりに可愛がってもらえたのは幸いだったが、やはり「なんでこんなことを?」という気持ちは最後までぬぐえなかった。

調査開始時は、この土地の人の、特に政治的なトピックや歴史について知りたいと思っていたのだが、フィールドワーカーがまずやるべきことはラポール関係の構築だ。自分の語学力は最悪なので、とりあえず踊りの団体に参与し、ある程度馴染んでからもろもろの聞き取りをおこなった(時には筆談をまじえたり、日本語がちょっとわかる人には日本語を使ったりもして、どうにか情報や語りを得た)。もちろん踊りや歌、楽器についても記録したり文献を漁ったりはしているが、どうもその方向で論文を書くエネルギーも力量もない。祭りの運営への参加や行事の出席などを通じて、顔や名前を覚えてもらうことができた。同時に自分も構成員のことを覚えていった。

毎日毎日単調に同じようなことをやっていったが、それでも変化や新しい発見はある。その蓄積を記録していたのだが、今見返すとしょうもないことばかり書いているように見える。これをどう論文やらなんやらにしていくかは今後の課題である。

 

比較的長期のフィールドワークは絶望的な時間であり、無実なのに懲役刑にされたような気持ちであった。正直、何のためにこんな苦労を強いられているのかと苦悶するばかりで、ほぼ鬱になっていたのだが、まだ帰国してそうそう日も経たぬうちに、なにか素晴らしい思い出であったかのような気がしている。喉元過ぎればなんとやらである。

フィールドの人には本当に良くしてもらったし、そう長い滞在はしないにせよ、また戻ることになるだろう。

いまこうしている間にも、フィールドの人々のライングループが動く。向こうでは自分がいない日常が動いている。『犬夜叉』の登場人物は、井戸を通じて戦国時代と現代を行き来し、二重の世界を生きていた。フィールドワーカーというのはそれに近いものなのかもしれない。あちらの日常とつながり続けることは、研究を続けなければならないひとつの理由にもなるだろうし、ある種のくびきともなる。院なんかさっさと辞めて全部から逃げたいがそうもいかない。とりあえずやるべきことをやらないといけない。