もちもちした犬

おもに日記のようなものを書きます。

帰国

5月の祭りなどの記事を書こうと思っていたのに、時間もなく気分も乗らず放置しっぱなしになっていました。まあ、そのうちなにか書こうと思います。

 

 

さて、6月の後半で交換留学が終わりとなり、京都に戻ってきた。

退寮の手続きは面倒だったが、その前日まで何も準備していなかった。というか暇がなかったのだ。毎日深夜にフィールドから戻り、洗濯したりゲームしたりネット見たりして寝る。起きてからは文献を漁ったりコピーしたりして夜にはまたフィールドに行き……の繰り返しであった。

いろいろ面倒ごとがあり大変だったが、どうにか日本に降り立った。関空も桃園もたいして違わない。〈非・場所〉というのはそういうことなんだろうか。クソ重い荷物を拾い上げ、高速バスに乗る。疲労でうとうとしているうちに、自分が台北から新竹に向かっているのか、関空から出町に向かっているのかわからなくなっていた。出町柳で降りると運転手がヘコヘコと「ありがとうございました」と言い、ああ、日本なんだなここは、と実感する。とんでもなく重たいトランクを2つ曳きながら歩くと家が死ぬほど遠い。ばんえい競馬状態で、進んでは止まりを繰り返しつつ歩いた。

自分がいない間にも京都の時間は進んでいた。知らない店が出来ていたり、知っている店が潰れたりしている。自分の居場所はもうないのかもしれない。

ほうほうのていで下宿に戻ると、時が止まっていた。幸い最悪の生き物の巣にはなっていなかったが、ぐちゃぐちゃに本が積まれ、荷解きをする場所もない。

日本に帰ってから最初に食べたのは、結局ペヤングだった。ソース味のものを久しく食べていなかったので、めちゃくちゃうまい気がした。

自分のフィールドは大学から結構な距離があり、乗り換えの時間なども含めると片道2時間程度かかる。最近は毎日夕方から夜にかけてその土地に通っていたので大変だった。もともと夜型の生活をしていたのでその点ではよかったが、普通に午前中は寝て過ごすことも多かった。

毎日フィールドで何をするのかというと、踊りの稽古である。自分の親くらいの年齢のご婦人たちと一緒になって踊りの練習をするのだ。それなりに可愛がってもらえたのは幸いだったが、やはり「なんでこんなことを?」という気持ちは最後までぬぐえなかった。

調査開始時は、この土地の人の、特に政治的なトピックや歴史について知りたいと思っていたのだが、フィールドワーカーがまずやるべきことはラポール関係の構築だ。自分の語学力は最悪なので、とりあえず踊りの団体に参与し、ある程度馴染んでからもろもろの聞き取りをおこなった(時には筆談をまじえたり、日本語がちょっとわかる人には日本語を使ったりもして、どうにか情報や語りを得た)。もちろん踊りや歌、楽器についても記録したり文献を漁ったりはしているが、どうもその方向で論文を書くエネルギーも力量もない。祭りの運営への参加や行事の出席などを通じて、顔や名前を覚えてもらうことができた。同時に自分も構成員のことを覚えていった。

毎日毎日単調に同じようなことをやっていったが、それでも変化や新しい発見はある。その蓄積を記録していたのだが、今見返すとしょうもないことばかり書いているように見える。これをどう論文やらなんやらにしていくかは今後の課題である。

 

比較的長期のフィールドワークは絶望的な時間であり、無実なのに懲役刑にされたような気持ちであった。正直、何のためにこんな苦労を強いられているのかと苦悶するばかりで、ほぼ鬱になっていたのだが、まだ帰国してそうそう日も経たぬうちに、なにか素晴らしい思い出であったかのような気がしている。喉元過ぎればなんとやらである。

フィールドの人には本当に良くしてもらったし、そう長い滞在はしないにせよ、また戻ることになるだろう。

いまこうしている間にも、フィールドの人々のライングループが動く。向こうでは自分がいない日常が動いている。『犬夜叉』の登場人物は、井戸を通じて戦国時代と現代を行き来し、二重の世界を生きていた。フィールドワーカーというのはそれに近いものなのかもしれない。あちらの日常とつながり続けることは、研究を続けなければならないひとつの理由にもなるだろうし、ある種のくびきともなる。院なんかさっさと辞めて全部から逃げたいがそうもいかない。とりあえずやるべきことをやらないといけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

山奥で雲南料理を食べて踊る

雲南の踊りの団体の理事長から、明日土地公に参りに行くので朝から来なね?と言われた。あいにく、その日の朝には同じ会の別の偉い人にインタビューの約束をしていたのだが、その先生にその話をすると、時間前倒しでインタビューをおこなってそのあと土地公まで送ってもらえることになった。それはいいとして、8時半に桃園のはずれにあるこの集落までくるためには、6時前には寮をでなくてはならない。なのにその日の踊りの練習は9時半くらいに終わったので、電車で大学まで戻ると日付の変わるころに到着する。結構厳しい。ということで台北に一泊してくることにした(近所には全くと言っていいほど空きのホテルがなかった)。

 

あくる朝、案の定全然眠れないまま当集落に到着した。

いつもだいたい昼過ぎから夜に来るので、朝の市場の賑わいは新鮮だ。まあ、日曜日だからというのもあるだろうが観光客や地元の人で朝から活気がある。

肉、野菜、鮮魚、きのこ、料理、などなど。見たことないものもたくさんある。東南アジア華人を中心とした個性的な市場になっている。

 

それから2時間ほど、へたくそな中国語でインタビューともつかない聞き取りをおこなったのだが、朝ごはんをごちそうしてもらうことになった。雲南料理の米干(米で作ったきしめんのようなもの)である。見た目以上に旨味の強い、はっきりとした味がする。以前も別の店で食べたことがあったが、この日の一杯は疲れた体に沁みるようなうまさだった。

ミャンマーやタイ、この地域の過去の話や歌についての話を聞いた後で、土地公に連れて行ってもらうことになった。土地公とは台湾でかなりメジャーな種類の神様であり、廟はめちゃくちゃ多いため、私は勝手にすぐ近所にあるものと思っていたのだが、目的地はなんと車で数十分くらいのめちゃくちゃ山の中にあった。藪に埋まりそうな細道をかっ飛ばす車の中で、千と千尋の「この車は四駆だぞ」のシーンを思い出していた。

 

到着すると、廟の前で踊りがはじまっていた。

インタビューに応じてくれた先生は午後から仕事があるということで、しばらく滞在してから戻ってしまった。感謝しきりである。後ろでは料理やテーブルを用意している様子で、踊りが終わると全員で準備する流れとなった。

 

この雲南打歌の協会は100人以上の会員がいるので、知らない人も多い。自分は例によってまごまごしていたのだが、みんなフレンドリーに話しかけてくれたため助かった。

木瓜絲(パパイヤの細く切ったやつ)、豌豆粉(エンドウ豆で作ったぷるぷるしたやつ)、打拋豬肉(ガパオ)、臘肉(干し肉)、スペアリブの煮込んだやつ、鶏肉、タイ米などなど。雲南料理は「口味很重」であるのが特徴である、と横に座ったおじさんが言っていた。酸味、辛み、塩気、いずれもしっかりしていて、脂っこいものも多い。なるほど米干もそうかもしれない。地理的にも近いことからタイ料理と近いものも多い。

 

ご飯を食べてまた踊りが始まる。自分もまたこの輪に加わって踊ったわけだが、ほどよい酩酊状態で円を描くように回るこの踊りに加わることは、妙に心地が良かった。

 

何もないような山の中にたたずむ廟の前で、異国情緒ある料理を腹いっぱい食べ、夢見心地の酩酊状態で踊ることは、今後の人生においてもそうそうないだろう。

 

そうこうしているうちにお開きとなる。帰りは理事長か誰かに乗せてもらうように言われていたのだが、理事長の親戚の新竹に住んでいるという人が連れて帰ってくれることになった。しかし、「別の店で飲むぞ!」と言われ、飲酒運転の車でさらに30分ほどのタイ料理の店にいくことに。彼は以前タイのメーサロンなどに住んでいたこともあるといい、タイ人の知り合いも多いという。

氷をいれたソーダ水にウイスキーを入れて飲むのがタイでは一般的だ、と彼は言いながらガンガン飲む。乾杯をすると空けるきまりなので自分も速いペースで飲むことになる。長年の友達だというタイ人の店主が料理をどんどん出しながら一緒に飲む。ほかにもタイ人が集まってきた。みんな基本的に中国語を話していたが、タイ語のカラオケが開始され、一気にタイになった。

 

結構辛みも強いエビ。あとは揚げた鶏皮、でかい鶏肉なども出てきた。どれもめちゃくちゃ美味しいのだがすでに腹いっぱいだったのでちょっとずつしか食べていない。タイ料理として出てきたものが、さきほど食べていた雲南料理と近いことを改めて感じた(むろんタイ料理のなかにもいろいろあるのだろうが)。

ガンガン酒を飲んでいたら、理事長の親戚は私にタクシーを用意して帰してくれたのだが、彼はまた飲酒運転で帰ったのだろうか。

 

タクシーで大学まで戻ると、現実に引き戻された。さっきまでの一日がまるで夢だったのではないかという気持ちになると同時に、吐き気、頭痛、疲労が一気に押し寄せてきた。

 

またビールの紹介

前回からだいぶ時間が空いてしまったというか、もう飽きてたというのはありますね。

 

anthf.hatenablog.jp

anthf.hatenablog.jp

 

日頃はだいたい台湾ビールを飲んでいる。安いので。しかし全然酔えない。

  • 臺虎

この9.9%のシリーズは全部99元。日本円は×4.5だと考えると445.5円くらいになる。普通に高いのでむやみに飲めない。

 

臺虎情聖多里尼

サントリーニ島をイメージしたであろうデザインと色遣いがかわいらしい。柑橘とワインの味がするのにビール。このシリーズの常だが本当になぜビールである必要があるのかわからない(後述)。

 

  • 極濃八生啤酒

68元(約306円)。極濃8パーセントということで、確かに飲みごたえのあるビールだったが普通に日本のビールでいい気はする。8パーでバカ酒感があるのは評価できる。わりと華やかな口当たりというか、それほどアルコールのきつさがなかった。

 

  • チェジュビール

チェジュ・ペロン・エール

写真が暗くてよくわからない。

 

台湾のコンビニは、韓国、日本、アメリカ、タイ、ベトナムなどのビールも置かれている。一般に韓国のビールはまずい。薄い。特にCASSとかはまずかった記憶がある。だが、台湾のコンビニで見かける韓国のビールは変わったクラフトビールなどが多い。

このチェジュビールはチェジュ島のクラフトビールらしい。こちらのペロンエールというほうは白ビールで、要はベルギービールっぽい。台湾では普通に買えるとはいえ、あまり飲む機会のないものではある。

 

チェジュ・ウィット・エール

これはチェジュ島の名産であるみかんの皮を使っているらしい。かなり上品な感じの味。台湾のコンビニのHi-Lifeというところが今(~3月7日まで)セールをやっており、チェジュビールはどちらも39元で買えた。定価は99元とかだったと思う。台湾ビールより安いので助かる。誰も買わないから定期的に値下げして在庫はけさせようとしているのだろうとは思う。事実、缶の上にホコリがめちゃくちゃついていた。

 

  • CISK

マルタのビールがスーパーで普通に売られていた。マルタはイタリアの先のほうの地中海に浮かぶ小国だが、なんでまたそんなところのビールがあるのか。マルタと中華民国は1972年に断交しているが、なにか政治的なあれがあるのかもしれない。

味は特筆すべきところはなかったように思うが、ドイツの安物ビールであるエッティンガーと近い。ストロングに関してはエッティンガーの同じようなやつよりおいしかった。どちらも確か60何元かだったはず。

 

オボローンビール

写真が暗すぎる。

 

これはウクライナのメーカー。キエフに工場があるらしい。ああいう状況にあるのに意外とちゃんと供給されているのだなと思った。しっかり香味のあるビールではあった。

 

  • ヴォルファス・エンゲルマン

 

これはIPAだが、APA、BLANCというのもある。89元(400.5円)。缶の上の部分にアルミホイルが被せてあるのも高級感があってよろしい。このメーカー、日本ではコストコ向けの安いやつが入ってきてるらしい。

リトアニアといえば、台湾と接近していることで注目されている。まあ、確実にこういう政治的背景とリンクしてビールの輸入もおこなわれているだろうなと思うのだが実際どうでしょうね。

www.asahi.com

 

  • 付記 酒税

実際、ビールよりチューハイが好きなのだが、台湾では酒税の関係上高いので全然飲んでない。

以下に酒税のあれをちょっと引用したい。

Q8:酒的稅負多少?
 A:菸酒稅法第8條規定,酒之應徵稅額如下:
(一)釀造酒類
  1. 啤酒:每公升徵收新臺幣26元。
  2. 他釀造酒:每公升按酒精成分每度徵收新臺幣7元。
(二)蒸餾酒類:每公升按酒精成分每度徵收新臺幣2.5元。
(三)再製酒類:酒精成分以容量計算超過20﹪者,每公升徵收新臺幣185元;酒精成分以容量計算在20﹪以下者,每公升按酒精成分每度徵收新臺幣7元。
(四)>料理酒:每公升徵收新臺幣9元。
(五)其他酒類:每公升按酒精成分每度徵收新臺幣7 元。
(六)酒精:每公升徵收新臺幣15元。

菸酒稅 -財政部臺北國稅局

ビールは1リットルあたり26元なのに対して、それ以外の醸造酒は1リットルあたり度数×7元。おそらくこれが臺虎の意味不明ビールを生み出す原因となっているとみて間違いないであろう。

また、日本のビールと発泡酒のカテゴライズと、台湾のそれとは異なるだろうし、日本だと発泡酒に分類されるようなものがビールになっているはずだ(臺虎なんかは特にそうだと思う)。そういう状況があって変態的なビール飲料が生まれる一方、台湾製のチューハイなどが全然見当たらないのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雑記

日本から戻って来てもうしばらくたつ。まるで夢だったかのようだ。日本から戻ると1週間隔離された(台湾のコロナ対策は全般的にズレているとずっと思っている)。適当にやってもバレないのかもしれないが、大学にいろいろ言わないといけない関係できっちり守った。1人1室、風呂とトイレが共用じゃないところという謎の制約があるせいで、寮住みの自分はホテルを取る羽目になり、また数万円損した。

新北のホテルは、ハード面はよかったものの掃除がめちゃくちゃされてなさそうで、ややばっちいところだった。まああまり期待してはいなかったが日本のビジホと同水準の値段だったのでそりゃ怒りたくもなる。近くで牡蠣の料理を出す屋台があったので食べたせいかわからないが腹を下した。腹痛はあまりなかったのでストレスのせいかもしれない。

寮に戻ると、学生証で開くはずのドアが開かなかったりインターネット代を払ったのにアカウントを削除するとかいうメールが送ってきたりして大変だった(一応解決した)。この大学は留学生に対するサポートがひどい。帰国したらうちの大学の国際教育交流課にいろいろチクってやろうと思っている。

先週土曜、久しぶりに調査地に行き、例の踊りに参加してきた。お土産に、博多駅で買ったにわかせんぺいを配った。久しぶりに会うおばさまがたは相変わらず元気だった。これからちゃんと調査をしないといけないのだが、本当に気が重い。

最近は、3月1日までの英語の原稿をやっているが、それ以外には個人的なおべんきょうのために作っている英語論文の和訳、そしてときどき中国語の勉強をしている。あとは今年の3月までの助成金の報告書や会計のやつも作らないといけないかもしれないが、だるいのでまだ何も手を付けていない。苦しい。

寮の同室の人は、なんか春節前にどこかに消えたが荷物は置きっぱなしである。どうも寮を出るっぽいのだが、この状態で新しく入る人間が来たらどうなるんだろうと考えて勝手に不安になっている。

この寮は刑務所のようなところだ。別に作業とか規律があるわけではないが、山の上にあり固いベッドで寝させられプライバシーもない。家賃は安いが、熊野寮の倍以上の家賃に値するかというとそんなことはないと感じる。これはフィールドワークの常だが、早く帰りたいと思い続ける日々だ。

 

 

 

 

どんぐり

実家には、どんぐりの木がある。もう3メートルくらいの高さになり、毎年実がなっている。これは、小学1年の歓迎遠足で拾ったどんぐりである。つまり、自分の就学年数と樹齢がだいたい一致する。

長崎の原爆を生き抜いた、大きなどんぐりから落ちた実。小学1年の自分はたくさん持ち帰ってプランターに植え、いくつか芽が出た。長崎から佐世保の本家に引っ越した時にもちゃんと持ってきており、その後大きくなって庭に植えられた。

ちいさなどんぐりが立派な木になるまでの時間、自分はどれほど成長できただろうか。親戚たちと同じように、高校を出て地元の会社で就職し、一生を九州で終えたであろう自分だが、アラサーになっても親に金を入れることもできない、意味不明の院生になって、今国外にいる。

 

学者はだいたいが都会育ちか田舎の金持ちの出身なので(バカでかい偏見)、おおよそ田舎的世界に対しての嫌悪感や恐ろしさを知らず、勝手なロマン化をしがちだ。

田舎ではとにかくヒエラルキーの高い人間が一生勝ち続ける。家、金、権力、いろいろな要因があるが、一番わかりやすい指標は中学や高校でのポジションであり、やはり学校的世界は重要なポイントとなる。

校長や学校の先生という職業が必要以上に尊敬されるのも、ヤンキーが「どこ中や?」と言うのも、尾崎豊の歌詞がやけに学校にこだわるのも、先輩・後輩が一生つきまとうのも、そういうところだ。

田舎は教員もたいがいバカなので、ヤンキーの味方である。手のかかるガキほどかわいいからだ。ヤンキーは勉強ができるやつが嫌いだ。眼鏡を踏んだり、足が遅いやつをいじめたりする。勉強のできたガキは、誰の印象にも残らずに消えていく。地元に居場所はないから早く出ないといけない。田舎は、保守性と家父長制、男尊女卑などなど、昭和の延長が旧態依然古色蒼然としている。

 

だが一方で、都市の大卒の層はどうしているのか。こちらは逆に頭のいいガキが勝つので、田舎の意味不明高校の上よりも、はるかに頭のいいガキがたくさん挫折をしている。

大きくなれば大学マウント、年収マウント、そして子供ができればすぐに中学受験の話ばかりして、日能研やら鉄緑会やらに通わせ、早くもレースを始めさせる。

実際のところ、彼らは「新自由主義」的エリートとなり、やがてマチズモ的になり、自己責任論に傾倒する(まあ、田舎から来た叩き上げエリートも必要以上にそれに適応しようとするものだが)。

 

結論、どこもかしこも狂ったヒエラルキーや競争が存在している。博士課程や研究の世界は、一層苛烈だと言えるかもしれない。まずPublish or perishはアカデミア全体に言えることだ。院生に関しては、DCを取っているかどうかが評価以前に生存の問題になる。博士号にしても、「足の裏の米粒」だのなんだのではなく、今や学振PDや公募のための必須要件になっている。院生も学者の家の人間は多く、文化資本の歴然たる違いを感じることもある。そして謎の力()が働くこともしょっちゅうだ。結局カッペが学者になろうとしたのがいけなかったんですかね!という気持ちにもなる。

 

デラシネであるとまではいかないが、ふらふらしたままアラサーになった自分は、いまだに根を張り、立派になることは出来ていない。お池にはまってさあ大変状態ともいえる。

競争は加速する一方だ。すべての競争から逃げたい。あるいは、もう少し遅い世界になってほしい。どんぐりよりもおそらく先に枯れてしまうであろう自分だが、せめてなんらかの形で実を結びたいものだ。

 

雑記

自分が所属している分野の博士後期は、3年で出られることはまずない(例外的に出る人もいるが、国費留学の外国人学生などである)。

もともとの内規では、査読論文2本以上、フィールドワーク1年以上という縛り、加えて博論本の出版も義務付けられている。研究科側の規定は査読論文1本あればいいらしいが、それよりもハードルを上げているうえに、近年では「学振PDに通るには査読論文4本はないと厳しい」という説明まで加わる。自分は1本論文があるが、これは修士のフィールドなのでカウントされない。

修士課程では国内で調査したが、博士は海外で調査しようという目算であった。変更しなければよかったのだが、嫌なことがあったので地域を変える必要性を感じたのだった。また、海外で調査してこそ人類学だ、というバカな気持ちもあった。しかし、コロナで渡航にも結構な遅れが生じることになる。

2019年にはマリアナ諸島で短期間の調査をおこなうも、金のなさでフィールド候補から外す。その後最終的に台湾に変更する。この時期くらいから中国語を独学したりしなかったりしている。

2020年に、まず1回目の渡航中止に遭う。2021年には渡航の延期が発生、2022年にようやく渡航ができた。しかしまあ、直前になって渡航許可が出たのもあり、死ぬほど厳しいスケジュールとバカみたいな高い金を出すはめになりその次の月には貯金が10万を切った。

現時点で博士後期に入って4年目、学年的にはD2である。日本でもたもたしているうちに、京大の次世代の給付を受けたが、2021年度にこの期間も切れた(この制度は相当にクソで、あらかじめ書いていなかった規約を出してきたり、約束を反故にしたりと、それはそれは不愉快な思いをしたのだった。支援とは名ばかりで人の心がない。全員くたばればいい)。学振も落ち、もう出せない。

交換留学で渡航したのだが、台湾の清華大学を選んだのは、そもそも調査しようと思っていた廟や場所に近いと判断していたからだ。読みは外れた。その廟はコロナで活動を中止している。加えて、この大学は立地も悪ければ図書館も充実していない。おまけに「交換留学」を利用したせいで留学生の集まりにつきあわせられる。チューターみたいなことを担当する学生からは、「清大は台湾では2番目の大学で」「国際的にも評価が高くて」「金があって」と毎度毎度自慢ばかりされる。いい加減うんざりしているので、全部京大のほうが上なんだが?と言ってやりたくもなる。愛校心ではない。大学施設の不備で苦労しているところに、金持ちアピールされるのが腹立たしいのだ。それは工学系の話だろ、寮は、そして人文系のあのざまはなんなんだよ。こんなしょぼいと事前にわからなかったのは、自分のリサーチ不足だけのせいではないはずだ。

人類学のことが好きだったのは、何かの間違いだったのかもしれない。フィールドワークは、そもそも楽しくない。苦労すること、恥をかくこと、嫌な思いをすることがほとんどだ。これは場所がどこであってもそうだ。自分はしゃべるのが大好き!とかどんどん人と知り合うのが好き!というタイプではない。観察したり、聞き役に徹する方が得意だし、理論のほうが好きなタイプだ。

もともと人類学のフィールドワークは修行のような性質がある。それでも、その先になにかがあるはずだと思えるからどうにかやれるものだ。ただし、今の私にはなにもない。苦しくならないはずがない。昔の人とは状況が全然違うのだ。院生の数ばかり増えて、子供は減り大学も減っていく。自分は親に頼ることもしていないし、バイトで全部カバーしてきた。しかしそのバイトも渡航で辞めることになった。学振貰いながら実家に住み、ほかの助成金も貰い、バイトもしているという東京住みの院生のツイートを見て憤死しかけた。

あてもなく渡航したが、この交換留学を終えたところでまたどうせ調査にいかないといけない。金もないのにフィールドに入り、嫌な思いをして思うようにいかない、これを繰り返す。日本に帰ってもゼミで叩かれ、論文を書いても査読リプライで叩かれ、非常勤もコネがないと回してもらえず、40近くなっても非正規、任期付き。博論予備ゼミもなんであんな圧迫するのか理解できない。人を潰すための分野なのか?人の人生をなんだと思っているんだろう。

京大に10年通ったのに、全部において佐世保工業を出て地元の造船所で働いている人間に負ける。年収だの学歴だのをどうこう言うのは「社会学的に正しくない」のもわかるし、冷静な自分ならそういうことは言わない。しかし、学者先生のいういわゆる「新自由主義的」な価値観を内面化せざるをえない状況があるのだ。食うに困ってる人間が面白いことを探す余裕があるわけがない。貧すれば鈍するのだ。運が良ければ40までには常勤になれる、運がなかったら一生バイトみたいな収入で生きていけ。こんな分野つぶした方が後世のためではないだろうか。うすらサヨクっぽいことを言うくせに弱者に厳しいのは誰だ。生存バイアスで「私は学振は取れなかったけど今では常勤です」とツイートするバカ。自分みたいな貧農のガキは学者になろうとしてはいけなかったのだろう。

修士卒でどっかの会社に入って「人類学をビジネスに活用」うんぬんと講釈垂れている人間のほうが、すべてにおいて余裕をもって人類学をお勉強できるだろう。アホはおれだ。博士なんか行くのはバカなのだ。こんな分野と心中してたまるかよ。と言いつつまだ調査をしにいくのである。

 

雲南の踊りと謎の小遊三

日曜日、桃園でおこなわれた「雲南打歌」促進協会の集まりに参加してきた。その会の代表をつとめている人とは1度だけ会ったことがあったのだが、たまたまその集まりがあるということを紹介されたので、詳細もよくわからないまま突撃したのであった。

 

www.youtube.com

打歌とは、まあだいたいこんなものである。雲南省では少数民族ごとにいろいろな踊り、曲、歌詞があるが、ここでは特にどこの民族のもの、というのではなく、要素を組み合わせてやっているという。

国共内戦の結果、中華民国の実質的な支配地は、「台澎金馬(台湾本島・澎湖諸島・金門・馬祖列島)」となった。

中国南部の雲南省では、激しい戦いの末、国民党と軍属がタイ・ビルマの国境地域に撤退し、遊撃隊を組織して長年抵抗をつづけていた。彼ら「泰緬孤軍」の話は、台湾では『異域』という小説および映画(2まである)を通じて広く認知されている。彼らの主な資金源はケシ栽培であった。麻薬産地「ゴールデントライアングル」と台湾は、密接な関係にあったのだ。

高野秀行安田峰俊のルポで有名な、ケシ栽培の土地。ミャンマーのカチンやワなど、現在もドンパチやっているイメージも強い。この地域は、人類学では「ゾミア」としても知られる。

民国主導の台湾への引き上げは何度か行われた。そうした人々の多くが、桃園・龍岡にある忠貞新村に集住している。また、留学や労働者として自ら台湾に渡ってきた人も多い。この地域で生まれた世代は無国籍状態であるので、高額な偽造パスポートを購入して台湾に入り、新しく国籍を得るという方法を取らざるを得なかった。

さて、会の話に戻る。突然招待してもらったが知り合いもいないので、どぎまぎしながら会場に着いた。結婚式とかやるでかいホールである。受付でごにゃごにゃしていたが話がかみ合わない。「あんたもしかしてこっち?」と別の方向に連れていかれた。あやうく知らない人の結婚式?か宴会?に行くところだった。

座席表

「打歌」の集団や、同郷集団、店などいろいろなカテゴリーで席が割り振られている。

「あの、日本の院生で、その、会員じゃないんですけど…会長に招待してもらったので……」としどろもどろに話しかけていると、早口でまくしたてられるままに参加費を払い、手前の席に座らせてもらった。

国歌斉唱、会の役員、国民党の議員、市長などVIPの挨拶が続く。選挙を控えているだけに、民進党批判や凍蒜!(当選!)のコールアンドレスポンスも盛りあがる。

テーブルにはあらかじめビラや候補の広告つきの水やらマスクやらが置かれていたが、このあともどんどん増えた。

「実は、ここにいる人みんな蔡英文が嫌いなんだよ!」

横の席の好々爺が笑う。まあ、自分も別に緑陣営が大好きというわけではない。挨拶に立ったのは国民党ばかりだが、ビラは民衆党も多い。しかし、民進党の人も一応来ていた。

ひととおり挨拶が終わると、テーブルのむかいにいた小遊三似のおじさんがグァバジュースを注いでくれた。酒飲めるんか?と言われたので好きですと即答すると、グラスにワインを注ごうとしたので急いでジュースを飲みほした。「いやいや、混ぜて飲むのがええねん。ちょっとやってみてや」というので、それに従うと確かにめちゃくちゃ飲みやすい。グァバグァバ飲める、という具合だ(は?)。

雲南やタイ、ミャンマーの特色が混ざった料理がテーブルに並ぶ。写真を撮り忘れたのは痛いが、ブタの耳の和え物、タイ風味の排骨や海鮮、羊肉の炒め物、そして羊の睾丸(ぶたのキンタマだと思ったけどあとで調べたら羊っぽかった)など。

きんたま

羊の睾丸は鍋でぐつぐつにゆでられていたが、かなり柔らかい。白子と近くクリーミーな味わいだが臭みもまったくない。小遊三がどんどん進めてくるので4つくらい食べた。

席に人が増えてくるたびに、ビールなどお酒が注がれて一気に飲む。それを繰り返すうちにべろべろになってきた。

新しく座ってきた老人は、日本で働いていたということで流暢な日本語を話した。ほかにも日本語を話せる人は結構いて、少しびっくりした。

横の席のおじさんは、自分は雲南とは縁がないと話していたが、なんと大陳義胞であるという(大陳もまた、特殊な経緯で台湾に来た外省人集団のひとつである)。

そうこうしているうちに、くじ引きやらなんやらのレクリエーションがおこなわれ、最後に全員で打歌を踊ることに。民族衣装に着飾った女性に続いて、全員が列をなして会場をぐるぐると回る。見よう見まねでステップを踏んだが案外難しい。横のおばちゃんも「アイヤーよくわからん!」みたいなことを言っていたのでたぶんみんなよくわからないなりにやっていたんだと思う。

 

全然知り合いもいない状況で朝早くから電車に乗って来たが、案外よくしてもらえた。いろいろメモをとってきたものの、見返すともっと聞いておくべきだった、というポイントも多い。連絡先も聞けたりしたので、今後やっていきたい。

小遊三似のおじさんが帰ったあと、横の人に小遊三の名前を聞いたら「え?知らないな……」と言っていたので結構びっくりした。まあでかい会なので、そういうこともあるのだろう。